命 と 心 の 教 育

   私には、18歳で高校3年生になる娘がいます。
    いよいよ第2学期の期末試験へ向けて、いつもの欠点すれすれをクリアーすることだけを考えた一夜漬けの試験勉強に取り組もうとしていたある晩、携帯電話がけたたましくが鳴りました。中学校の同級生の男の子からの用らしく、「エッ!ウソオ!、、、ウン、、、、ウン、、、、」と応対するばかりで電話を切りましたが、暫く沈黙を守ったあと感情を抑えて「Mちゃんが危ないねん」といって出かける用意を始め、友達何人かと連絡をとり合い病院へ出かけていきました。余命もたせて1週間、誰にも会える情態ではなく、Mチャンのお姉さんから様子を聞き、小学校、中学校の同窓生の子供たちと一緒に過ごしたらしく深夜に帰宅しました。集まった子供たちは、それぞれ進学校に在籍する子もいれば、俗語で「すでに終わっている」高校に通っている子、それぞれ現在の環境は異なる男女の子供たちです。

    Mちゃんと私の娘たちとは大阪北端の郊外の山に囲まれた同一マンションで幼なじみ、田舎の小学校、中学校と仲良くすごしました。別々の棟に住むMちゃんと私の娘はお互いの家でよく泊まり、中学校では毎朝一緒に登校していましたが、遅刻の常習犯で、いわゆる優等生ではありませんでした。しかし、2人とも学校が大変好きでした。特に文化祭、体育祭などの学校行事になると命をかけていました。高校は別々で、お互い新しい友達ができ、それぞれ次の時代へと成長していました。

    Mちゃんは1年前の秋から白血病と診断され闘病生活を続けていました。それ以前に身体に現れた症状を白血病ではないかと思いながら、どうしても修学旅行に行きたかったから、Mちゃんはそれが終わるまでは誰にも話さなかったと、入院してまもなく娘に打ち明けたそうです。「最近メールを送っても返事がないねん」と最近娘がもらしていましたのを聞きましたが、かげんがかなり悪くなっていたのでしょう。これまで、「絶対に学校に帰るから」と強く娘に誓っていたMちゃんでしたが、その頃お姉さんには「生まれてこれほど辛いことはない。安楽死したい。」とメールを送ってきたそうです。

   その晩から、学校を終えると、十数人の子供たちは遠くは2時間もかけて病院まで集まり、ロビーで朝がた近くまで、Mちゃん本人には会えないけれどもひたすら経過を見守る数日をすごしました。

   その間、概ねどこの高校でも期末試験と重なり、ある男の子のお母さんは、「こんな大事な時に毎晩出かけて…」とつい本音を漏らされていたようですが、不思議ではありません。我が家でも2年生から3年生の進級について、任意の留学で出席日数が足りず本来ならば間違いなく落第であったところをクラスの友達の校内署名運動や教員会議の末に周りの皆さんの好意でもって進級させていただいた経過などを思うと、口には出さないけれど心中には考えるものがありました。

    この子供たちの精神や選択は正しいとして、その選択の結果、失うものへの躊躇。実社会では、大人の学習としてその躊躇の繰り返しが暗黙の否定へとなることを、たくさん経験しているからです。

   私は、この子供たちのうちの誰かが仮に運悪く落第することになっても決して後悔などしないで欲しい、「お前たちは絶対に正しい」と半ば祈るような思いでおりました。

   そして、試験期間も終盤にかかる頃、Mちゃんは亡くなりました。お通夜の前日から泊りがけで参列する子もあり、式の当日は試験を休んで朝から夜遅くまで、そしてその翌日、Mチャンの家族とともにすごしました。娘の通う高校では、試験を休むことについて「見込み点」という扱いで対処してくれたようです。子供たちの健康を気遣い温かい心で送り出してくれた担任の先生、試験教科の先生がたに心から感謝するとともに、今日の教育の場においても、人の心や命についての想いを支える真実の実践がされていることへ熱い共感を持ちました。

   Mちゃんのお姉さんから「親戚よりもMにとっては大事」と言ってもらって子供たちは、大変感激したということです。また、Mちゃんのお姉さんに許しを得、その遺骨をそれぞれ食べたそうです。

   死というものは、誰もがそこから逃れないとは解っていても、日常本能的に自分とは別の世界に意識をおき、現在の心のベクトル上には存在していないのではないのでしょうか。

   また、己の死については特に「自分はいつか死ぬ」と考えても「いつか」というあいまいさをもって死の恐れへの心のバランスを保ちます。考えれば不思議な自己防衛本能といいますか、神の与えられた錯覚ではないでしょうか。

   概ね、人は近い身内や大切な人が逝き、初めて「死」に接し、「死」をバーチャル(電脳)や理屈の世界から自分の「心」の世界へ落とし込み、「命」の重さを感じるのではないでしょうか。

   核家族化が進み、医療の行き届いた今日、自宅で家族を看取る場には子供たちは居合わすことができませんから、結果として心で命を感じる教育の場が与えられていないのです。

   この子達は今後別々の道を歩み、このようにして集うことももう無いかもしれません。 しかし、Mちゃんの死を直に心で感じ、命を引継いだこの子達は、少なくとも自分だけではなく他の誰かのために自分の心と命を大切にする大人になるのではないかと考えます。



BACK